“私だから”できたわけじゃない。誰だって、いつからだって遅くない。できる一歩から外へ、地域へ踏み出そう。


藤沢市の生涯学習総務課(生涯学習活動推進室)で仕事をしながら、『まちのキャリアラボ』協力メンバーとして地域のキャリア形成にも関わっている井出祥子さん。社会教育を専門に学んでいた学生時代、ゼミ研究や海外ボランティアなど様々な人と交流する中で、出会った市職員の姿に憧れて行政職員を目指したといいます。子育てと仕事、役所ならではの特性……もどかしさを覚えることもあり、必ずしも思い描いていた20年ではなかったとそのキャリアを振り返ります。それでも、40歳をすぎて大学院に進むなど枯渇するたび学び直し模索してきた井出さん。現在は同世代コミュニティをキーワードに、50代が地域に参加するための活動を行っています。信念を貫き進み続ける井出さんのマイストーリーをお聞きします。

  • ※「藤沢市生涯学習活動推進室(フラッポ)」とは?……藤沢市の生涯学習活動の発信地として、市民の皆さんが「いつでも、どこでも、だれでも」学びたいことを学び、その学んだ知識や成果をくらしや地域に生かすことで、人生をより豊かにすることを目的として、2019年4月より、藤沢公民館・労働会館等複合施設内に開室しています。藤沢市の歴史・文化・自然など身近なテーマを取り入れた講座や、地域コミュニティでのつながり・居場所・仲間づくりを目的とした講座など、「生涯学習大学」をはじめ、年間を通じてさまざまな講座を開催しています。

ー 現在藤沢市の生涯学習総務課に勤めていらっしゃる井出さんですが、まずはキャリアのスタートから教えてください。

井出 最初は川崎市に勤めていたんです。新卒では藤沢市は落ちてしまって。でも、どうしても藤沢市で働きたくて、再受験して入職しました。キャリアのスタートというと、「どうしても藤沢市に勤めたい」という想いが原点ですね。

ー 藤沢市に拘っていたのは、やっぱりご自身が暮らしている街だからですか?

井出 もちろんそれもあります。でも、もともと私が行政職員を目指すきっかけになる姿が藤沢市にあったんです。

私は大学では学校教育をはじめ、家庭教育や障害者教育といった様々な教育分野を学んでいました。実はもともと、教員を目指していたんですよ。当時の(神奈川)県の教員採用って教科によっては一名しか採らないという狭き門で、自分の成績も照らして考えたら無理だろうなって早々に諦めたんですけれど。専門は社会教育で、あるとき「地域の公民館を調べてレポートを書きなさい」という課題が出たんですね。それで、藤沢市の公民館に通うことになりました。役所って事務的な仕事ばかりだと思っていたんですけれど、そのときに出会った人たちは違っていて。人と接して、その人たちに喜んでもらえるようなクリエイティブな仕事も役所にはあるんだって気づきました。

それから、藤沢市では1985年の国際青年年を機に、1987年に青少年課が市内の大学生など若い世代を集めて大島に連れていくというイベントを行っていたんです。そこに私も参加して。そこで出会った職員さんの中にも憧れる存在がいました。

ー 最初に触れた方々に影響されているんですね。

井出 実際に(役所に)入ってみて、彼らって王道ではなかったんだって気づきましたけれど(笑)。彼らは、とても強い想いを持っていたんですよ。でも、行政って想いを持っている人に対して冷たい一面もあって。というのも、行政では専門性よりもバランスが重宝される傾向があるんです。いろいろな部署を回って仕事をしますから、特定の場所でしか力を発揮できないとなるとなかなか厳しい。行政職員というのはジェネラリストで、一方向に特化した専門性を持つことは難しいなと感じていました。

ー もどかしさも覚えていたんですね。

井出 そうですね。最初に思い描いていた姿とはすこし違っていました。あと、プライベートのこともあって。

私は26歳で結婚して、27歳で子どもに恵まれました。入職して4年目くらいで産休に入ったんですね。だから、30代は子育てと仕事の両立に注力していて。どれだけ早く帰れるか、時間通り子どもを迎えに行って晩御飯を準備できるかとかが先に立って、仕事は人に迷惑を掛けないレベルでって考えていました。そうでないと家庭が立ち行かなくなるって勝手に思っていたんです。それが、すごくもどかしかったですね。仕事では与えられたこと以外には手を出さず、淡々とこなす。40代前半くらいまではそれで精いっぱいでした。

ー 当初思い描いていた姿とはどんなものだったんですか?

井出 人と接しながら何か事業をすることを夢見ていました。けれど、最初に配属されたのが教育委員会の総務課で、事務仕事がメインだったんです。それ以降も、異動の希望を出していたんですけど、基本的にはやりたいセクションには動けないまま。20年近く続きました。

ー 20年! 長いですね。

井出 そうですね。でも、総務の仕事を通じていろいろな人と知り合えたことはメリットでした。希望とは違いますが、40歳で土木系の課に移ったときには測量や図面を引く技術職の人たちと知り合えましたし、そこに異動したからこそ得られた人脈があったのは確かで、今はその期間も前向きに捉えています。

ー 祥子さんは、いろいろな人とお話しするのが好きそうですよね。

井出 好きだったんだろうなって思います。大島の活動以外にも、20~30代を海外に派遣する県や国の事業にも参加していました。学生時代はインドネシア、社会人になってからは中国へ。

ー 社会人になってからも参加していたんですか。

井出 はい。「休みを取って何やっているんだ」って当時は職員課に睨まれていましたけれど(笑)。「ボランティアなんて学生でやめろ」って言われたときにはさすがにカチンときました。

ー それでも参加しようと思ったのは、どういったお気持ちがあったんですか?

井出 若い頃から組織に忖度するのが嫌だったんですよね。人と違ってもいいっていうのは根底にありました。周りからしたら、超迷惑な若手職員だったと思いますよ(笑)。

でも、こうして自分が若い頃にいろいろやったからこそ、今、私も若い世代の背中を押してあげられるようになりたいって思います。外での勉強も、育休や産休もそうです。「仕事以外でやりたいことがあるなら、私がフォローするから行っておいで」って言ってあげたい。『プライベートと両立してキャリアを積んでいける世の中に』と言っている行政が、それをできていなくてどうするんだって思うんですよ。かっこよく言うと(笑)。

ー かつての祥子さんみたいに、外に出ていこうとしている職員を支えていきたいと。

井出 応援したいですね。まあ私には、何かあるときに「こっちはいいから帰りな」って言ってあげるくらいしかできないんですけれどね。

ー いや、でもそう言ってもらえるだけで頑張れますよね。すてきです。

井出 当たり前のことを当たり前に返していく難しさは感じています。意識しないとできないっていう情けなさも同時に感じるんですけれど。もらいっぱなしでいるので、返していかないと。50代になって、残りの役所人生で後輩たちに何をしてあげられるのか、そろそろ本気で考えないといけないって思っています。

私、42歳のときに大学院に行っているんですよ。40代になって子どもも手が離れて時間ができて、けれどこのままでは自分がやりたい仕事はできないし、どうしようかなあって悩んでいたんです。それで、思い立って。

ー 当時は選択肢があったんじゃないですか?

井出 うーん……逆に、選択肢はなかったんですよ。このままひたすら粛々と勤め上げるしかないと思っていて。でも、私はやりたい仕事ができる職場に行って辞めたいって、そんな気持ちが急に降ってきて。ああ、やらなきゃって。

ー それは突然だったんですか?

井出 そうですね。ちょうど「自己啓発等休業」っていう制度ができたタイミングでもあったんです。それまでは大学院に行くとなると夜学に通うか仕事を辞めるかしか選択肢がなかったのですが、この制度を使えば、大学院に通う場合最大二年間休める。それを知って、上司や職員課に活用したいと話しました。制度ができた翌年くらいだったので、事務職では私が第一号。なかなかOKがでなくて。他市事例を調べつつ、「必ず、そこで得たことを持ち帰って役立てますので」って説得しました。

ー 大学院ではどんなことをされたんですか?

井出 学生時代と同じ、社会教育です。今の社会教育を学びたいと思って。阪神淡路大震災以降、時代的にもNPOやボランティアが当たり前になってきていました。仕事以外に自分を持っていていいんだってことをみんなが気づき始めていたんですよね。大学院に通ったのが2010年頃で、在学中には東日本大震災も経験しました。ちょうど指導教官も市民活動をやっていたので勉強させてもらって。

大学院は意外と社会人も多かったんですよ。私が師事していた先生は、社会人としての“実践”も大切に考えてくださいました。これまで行政として実践してきたことを題材に、実践と理論とを行ったり来たりしながら学びました。それができたことはとても良かったなと思います。

ー ひとくちに社会人といっても、様々なバックグラウンドを持つ方々がいたと思います。そこについてはいかがでしたか?

井出 ストレートマスターはみんな自分の意見があっても、相手を論破するのではなくまずは認めていこうという方が多かったです。バランスがとれているなあと。年齢に関係なく、相手の意見をちゃんと聞く。その姿勢は大人こそ見習わなくちゃと思いました。

社会人の方たちは仰る通り、様々なバッグラウンドをお持ちでした。キャリアをブラッシュアップするために通っていましたから貪欲さはありましたし、休職して通っている私と違って仕事をしながら、時間がない中で必死に勉強をしていて、それは本当に頭が下がる思いでした。やる気があれば人ってここまでできるんだなって。それってやっぱり、役所にいるだけではわからないことだったんですよね。若いうちに大学に行くことももちろんいいけれど、年をとってからもう一度学び直すのもいいよって、言いたいですね。

ー 卒業して戻ってきたとき、見える景色は変わりましたか?

井出 みんな、好きな分野で「セミスペシャリスト」になればいいって思うようになりました。

大学院から戻ってきて、専門性を持って自分の意見を言えるようになりました。頼ってもらうことや話を聞いてもらえることが増えたんですね。役所として重宝されるのは、人のフォローができて、バランスよく何事も吸収できる人。でも、何かしらの専門性を持つ人はやっぱり魅力的だし、それが大切なんだって思うようになりました。ただ、「スペシャリスト」になってある一つの箇所でしか(その力を)使えないというのではフィットしない。だから、「セミスペシャリスト」なんです。

セミスペシャリストがたくさんいれば、全体の底上げにもなる。得意技を活かす職員が様々な課にバランスよくいれば、組織としても良くなるし、嫌々仕事をする人だって少なくなるのになって。

ー セミスペシャリストっていいですね!

井出 勝手に私が名付けただけなんですけどね(笑)。若手職員の研修とかで話してみたりしています。

ー みなさんの反応はどうですか?

井出 まちまちですね。「井出さんだからできるんでしょ」って言われることもあります。でも、誰しも可能性はあるんですよ。だから、いつからだって遅くないって思って欲しいなって。伝わる人には伝えていきたいって思っています。

今に繋がるきっかけになった出来事はもう一つあって、大学院を卒業して5~6年後かな、大学院で学んでストックしたものを出し切って枯渇してしまったから、またチャージしたいなと思って、島根大学で社会人を対象にオンラインで行っている「地域教育魅力化コーディネーター育成プログラム」を受講しました。学校を核に地域を良くしようという内容です。

ー そこでの経験が今の活動に繋がっている?

井出 1年間のプログラムで、最後に「地域を魅力的にするために自分がやること」を宣言して終わったんです。その中で私はおざなりに「今の仕事をブラシュアップして頑張ります」と言ったんです。そうしたら全員から「面白くない」って言われて(笑)。「今までのやり方で成功していないからここに来たんじゃないですか」「良いことやろうみたいな姿勢はつまらないですよ」「どう変えられるのかって考えるのが課題ですよね」って。他の受講者は年下ばかりでしたし、今思えばみんなよく平気で言うなって思いますけど(笑)。でも、批判ではなく私を理解したうえで愛情を持って言ってくれていたんですよね。

その中で、「企画しようとしている事業って祥子さん自身が参加したいですか?」という問いがあったんです。「祥子さんが参加したくないのなら、みんな参加したくないですよ。自分が出てみたいと思う事業をしてみたらどうですか?」って。その言葉で、まずは私自身や同世代の50代に地域をわかってもらい、楽しんでもらわないと自治は立ち行かないと気づいたんです。それが、スタートになりました。それでチガラボにも伺って(清水)謙さんに相談をして。実はチガラボも、島根大学の受講者に薦められて知ったんですよ。チガラボで活動されている方々の話を聞くだけでも面白かったんですけれど、それだけじゃダメだなと感じ、活動を始めました。

ー 改めて、今の活動について教えてください

井出 同世代コミュニティを基軸に50代が地域に参加するための活動をしています。具体的には、イベント開催と居場所づくりです。居場所の方はいまコロナでとん挫しているので、マスクをとってみんなでワイワイできるようになったら再出発をと思っています。

イベントの方は、まずはテストとして個人で開催して反応をみて、ゆくゆくは行政主導で何かを、というのが目標でした。そこから始まり、昨年・今年と実際に行政主導でのイベントができました。今年は、「50代の働き方改革」と「昭和ヒーロー再探訪」という硬軟2つのセミナーを開催しましたが、どちらも需要があって、きちんとアプローチすれば地域のサイレントマジョリティーとなっている50代も、意識を持って参加していただけることに気づけました。

ー 島根大学で受けた問い、「祥子さん自身が楽しいと思うことを」という部分は実現されていますか?

井出 さっきジミー君が言ってくださいましたけれど、私、人と繋がることは嫌いじゃなかったというか好きだったんですよね。50代になった今改めて気づきました。今の活動は仕事の延長のような部分もありますけれど、「自分がやっていて楽しければ、誰かもきっと楽しいだろう」っていう論法で考えて、自分も楽しもうと思っています。

ー 祥子さんはいつでも楽しそうだなって思います(笑)。

井出 ありがとうございます(笑)。「あんなふうに思えるんだったらやってみようかな」とか思ってもらえるといいなという意識が根底にあるんだと思います。それから、自分を鼓舞する意味でも。

自分より頑張っている人をみると、這ってでもついていきたいと思うんです。そのためには学ぶしかない。おかげさまで人に恵まれてきたから、みんなの生き血を吸って、元気をもらって(笑)。まだまだ吸わせてもらいますよ!(笑) 学ぶことを手放したらダメになっちゃう、と思っています。

一方で、「培ってきたキャリアを手放して」って島根大学で言われたんです。そうしたらラクになって。手放していいんだって気づきました。だから手放すことも積極的にしていかなくちゃって思っています。

ー 手放すところとしがみつくところを見極めるというか。

井出 そういうことですよね。私は役所の中では異端児なんですけど、「役所の中の異端児」なんてたかが知れてるんですよね。まだまだ井の中の蛙だなってチガラボに来て実感しています。自治体の職員が民間も含めていろいろなところにアクセスしていかないと、地域って良くなりません。地域を運営する私たちが地域のことをわかりもしないで何ができるのか? 一人でも多くの職員がそのことに気づいて、地域にアクセスすることが増えれば良いまちになるんじゃないかなって思います。

ー まず職員のみなさん自身が体感しないとと。

井出 そう。声を掛けても来ないんですよね、同世代は特に。それももどかしいです。まあ、だから若い職員になるべく言うようにしているんですけれど(笑)。

ー 今後はどういった発展を?

井出 一部の人たちの仲良しクラブではダメで、入れ替わりのある新陳代謝が進む同世代コミュニティであれと思っています。来るもの拒まず、去る者追わず。そのためにはいろいろな人と知り合うことが大事。離れた期間があっても戻ってこられるような、自分たちが死ぬまで続けられる持続可能なゆるいコミュニティになることを目指そうかなって。とりあえず、良いことしているよね、で終わるのはやめたいんです。まあ、はっきり方向性を見せないのってずるいのかなって気もしているんですけど(笑)。

ー いやいや、どう転ぶかわからないっていうのは可能性ですよね。僕はわくわくします。

井出 自ら起業してリーダーになるほど力はないんですって言う人がたくさんいて。私だって、旗を振っていくのは苦手です。のっかる方がラクですしね。私たち昭和40年前後生まれ、今50代中盤くらいの人たちってリーダーではなくフォロワー世代なんですよ。でも、支援することはできるから、そこからでいいんじゃないかなって思います。そうじゃないと辛くなるし。できることから探せばいい。そこからやっていこうよって考えています。

仕事からプライベートに還りライフワークにも繋がっていく。たぶん私は、50代なら50代、60代なら60代と、同世代のコミュニティづくりをやっていくだけだと思うんですけれど、その過程でいろいろな世代の人と繋がっていければいいかなって。私たち世代は、最初から多世代交流は苦手なんで(笑)。

ー 今日は知らなかった側面が沢山知れてよかったです。最後に伝えたいことはありますか。

井出 大学院から戻ってきたあとラジオ番組に出たことがあったんです。そのとき座右の銘を聞かれて、『思い立ったが吉日』って答えていました。勢いで生きてきた人生ですけど、でも、それって若いからできるとかではない。できるって思えば、できます。チャレンジすることはハードルが高い。私もそう思います。でも、思うだけではなくて行動することを大切にして日々意識しながら学んでいきたいと思っています。どうぞ見かけたら、「最近どう? やってる?」って発破かけてもらえたら嬉しいです。

 

<インタビューを終えて>
井出祥子さんは、お写真でも雰囲気が伝わるようにいつも楽しげな笑顔でお話をしてくださいます。これまでの人生でもどかしさを感じる時もあったとおっしゃっていましたが、その都度学び直しと称して新しい環境を開拓し、そこで得たエネルギーや知見を持って帰って来る姿勢に芯の強さを感じました。今回のインタビューを通して、「人と違ってもいい」とおっしゃる祥子さんの姿がとても印象に残っています。祥子さんがつくる同世代コミュニティも、きっと違うことが受け入れてもらえる場なのだろうなと楽しく想像しています。
大西裕太

 

取材:大西裕太
文 :森岡悠翔
撮影:あさな