どうしようもなく辛い経験が、諦めた夢に向かわせてくれた。社会と学校が、巡り、共に育つ街をつくりたい。

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教員として定年まで勤めあげられ、現在も教育委員会のお仕事でキャリア教育関連のコーディネートなどをされている内藤幸久さん。実は、大学では建築学科、キャリアのスタートは建設会社での現場監督だったそうです。自殺を考えるほどに追い詰められた時期もあった、という内藤さん。そんな経験を経て、ずっと心に温めていた教員という仕事に就く決心をした内藤さんが、40年教育現場を見て、いま考えるキャリアのこと。内藤さんのキャリアヒストリーを紐解きます。

―まずはキャリアのスタートから教えてください。

内藤:建築学科を卒業して、建設会社で現場監督をしていました。重機とか、大工とか、男っぽい仕事に憧れていたのと、「残る仕事」がしたくて。建築は建物が残るし、その中で人が生活するって、一緒に夢を見るみたいで素敵だなと思って。

―ロマンがありますね!

内藤:同期が3人、ほか社長以下2人という小さい会社だったこともあって、新人のときから役所や職人さんとの打ち合わせ、図面・工程表の作成など一通り全部やりました。お金の管理、使い方に慣れるのが一番大変だったかな。最初、現場で出る廃材や屑の廃棄方法を知らなくて。本当は業者に任せられるんだけど、自分でやるものと思っていたから、毎晩現場が終わったあと夜中1時、2時くらいまで片づけていました。翌日も7時くらいには職人さんが来始めるから現場にいかなきゃいけなくて、3~4時間睡眠とかはざらでしたね。 

―それは…大変な生活ですね。当時は「仕事」ってどんな存在でしたか?

内藤:最初はとにかく「かっこよさ」を求めていたんです。それで男っぽい仕事に憧れていましたけど、いざ入社したら、人数も少ないし、こんな小さい会社でどうやって現場を進めていくんだろうって不安はありました。仕事の中身というよりも、働き方・スタイルに目が向いたというか、“安定”に憧れるようにもなって。職場環境もいろいろありましたしね。2年目の終わりには自殺も考えるくらい追い詰められていました。いつ横浜駅に飛びこもうかって。

photo of Naito-san 2ーそうだったんですね…!

内藤:自分が直接的に何かをされたわけではないんですよ。でも、ほかの社員に対する罵声や、ギリギリのところで頑張る下請さんに対して平気でコストカットしていく姿とかを見ると人間不信に陥ってしまって。

―建設会社はいつまで勤められていたんですか?

内藤:2年ほどですね。そのあと、教員免許を取るために1年間大学に通いました。部長に話したら、夏休みには図面書きに来てくれって言われて、アルバイトとして続けてはいましたけれど。まずは中学の教職を取って、その後、アルバイトで資金集めしながら小学校の免許を取りました。

―アルバイトしながらって、かなり大変だと思いますが、原動力はなんだったんですか?

内藤:「社長への仕返し」かもしれないですね(笑)。

―見返したい気持ち?

内藤:そうですね。社長に仕事を下ろす側になるとか、社長の娘を担任していじめるとか(笑)。……それは冗談ですけれど、社長と自分は別の人間なんだってことを示したかったんですよね。

―究極的な状況が、エネルギーになっていたんですね。

内藤:そうですね。一度しかない人生だから「人間を育てる」仕事をしよう、とようやく決断ができたんです。

―もともと教員も考えられていたんですか?

内藤:学園もののテレビドラマ、「青春とはなんだ」(1965年から66年にかけて放送されたテレビドラマ)とか知っているかな(笑)。そういう熱血教師の姿に憧れていて。でも、自分は熱しやすく冷めやすい性格だったし、務まらないだろうなって諦めていたんです。でも、2年間現場監督をやったことで、これだけ厳しい環境で働けたんだから、教師だってできるかもしれないって思って。

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―大きな決断はエネルギーがないとできないですよね。

内藤:死ぬことばかり考えていた時期もあるけれど、それは、裏を返せば自分らしく生きたいということだったんだと思います。優しい言葉をかけてもらった記憶もありますよ。深夜タクシーに乗ったとき「疲れちゃったんです」ってぽろっと言ったら、「誰にでもあるよ」「必ず乗り越えられるよ」って言ってもらって……一番覚えているのは「朝日に向かってありがとうっていうんだ」という言葉。自分に力がでないときでも朝日を見ると元気が出る。そんなことに気付かせてもらったな。

―何気ない会話からもらった勇気があったんですね。

内藤:どんな場面で何に出会うかはわからないものですね。疲れ果てて乗ったタクシーだけど、自分に気付いて、声をかけてくれた。それだけで救われたのかもしれません。

―教職を取ってからは、教員の仕事に?

内藤:そうですね。寒川町の教育委員会にお声掛けいただいて臨時で。すごく荒れている時代でした。でも、荒れている子ほど、生き苦しんでいる。僕の目にはそんなふうに映りました。学校に対する不満、教員に対する不満……わかりたいし、救いになることをしたい。環境で苦しんでいた自分だからこそそれができるかもしれない、そう思いました。

―教師の雰囲気、学校の様子はどうでしたか?

内藤:一言で言えば、古い時代の学校でしたね。子どもたちをきちんと育てないといけないという。先輩教師から「もっとビシビシやれよ」と指導されたこともありました。「そんなんじゃ生徒に馬鹿にされるぞ」とか、「あんな奴らの勝手にさせて、教師のプライドはどうなるんだ」とかね。運動部系の教師がリーダーシップを握っていて、力で押さえつけて、管理するような体制でした。

―内藤さんは、その体制に違和感を覚えていた?

内藤:いえ、当時は違和感を持っていなくて。逆に、そこに馴染めない自分は駄目なんだ、と実力のなさを感じていました。

―教員は、何年くらい勤められたんですか?

内藤:40年ほどです。

―40年の中で、変化がありましたか?

内藤:大いにありましたね。20年くらい経つと、子どもたちを受け入れて関係をつくることができるようになったんです。言いたいことを言って、笑顔になる、そんな関係です。昔は、教師も生徒も青春していましたね(笑)。“力”対“力”で戦っていたんです。

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教師と生徒って、変な関係ですよ。最初は、“力”対“力”で戦う。生徒が有り余るエネルギーやもどかしさを力として発揮して、教師側もそれを力で受け止める。僕が教員になりたての頃は、生徒に暴力をふるわせてしまう教育があったんです。生徒を助けたいという想いが強くなると、今度は生徒のほうに引っ張られすぎてしまう。だから、生徒を受け入れるのではなく、シャットアウトする方向に動いてしまう。新任のころは、実力=生徒を従わせる力、だと思っていました。でも段々と、どうやったら暴力をふるわせない関係性をつくれるのか?という考えにシフトして。そうするうちに、暴力という教師と生徒の劇的な接触はだんだんと無くなって、子どもたちが自分で成長し、教師はそれを支える、という一定の距離をとった関係をつくれるようになってくるんです。

生徒のほうも、3年生くらいになると、教員の辛さもわかって理解を示し始めてくれるんですよね。「よく(あんな自分たちに)耐えていたよね」と(笑)。

―現在は現場からは離れていらっしゃるんですよね。

内藤:4年前に定年退職しました。途中辞めたいと思うこともありましたけど、もう後がないという気持ちがあったから続けてこられたのかもしれません。

―今も、キャリアや教育に関連した活動を?

内藤:そうですね。今の自分を作っている大元は、10年ほど前から始まっているキャリア教育にあると思っています。

―キャリア教育ですか。

内藤:昔のキャリア教育は、1年に一度、学年に1人の講師を招いて講演するのが一般的だったんです。でも、一学年100名以上いたりするでしょう。3列目くらいまでは熱心に聞いているんだけど、後ろのほうの子たちは寝ていたり喋っていたりで聞いていない(笑)。そういう姿を見て、生徒と講師の距離を近くしたい、直接喋ってもらいたいという想いが強くあったんです。

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「279スペシャル(つなぐスペシャル)」ってご存じですか? 社会人を講師としてお呼びして、教室で生徒たちに話してもらうプログラムです。僕が考えるのは、最低でもクラスに2人の講師。そう考えると、1学年に5クラスあったら10名の講師が必要です。だから、人材探しに飛び回らないととてもじゃないけど足りなくて。イベントに行って名刺交換したり人材発掘の毎日で、たくさんの人と出会いました。まず自分が講師になる人たちの魅力を聞き出さないといけないから、たくさんの方とお話して、それで自分自身も大きな影響を受けました。

―多くの方との出会いで変わっていったんですね。

内藤:個人としても、「キーパーソン21」の認定講師をとりました。動き出さずにいられない、それをやらないと生きている意味がない!とか、自分を動かすエンジンを発見する「わくわくエンジン」というプログラムに感銘を受けて。

いま、学校教育の中では「社会に開かれた教育課程」が合言葉になっています。学校側も、教育現場への社会の参画を望んでいるのだと思います。

―そもそも内藤さんが教員になった理由はどこにあったのでしょうか。

内藤:昔は、「子どものために」と思っていました。子どもが好き。だから、彼らに生きるということを伝えたいって。でも、それって「子どもがイキイキとしていないと、“自分が”生きる意味がない」って思っていたってことに気付きました。僕は教頭も経験していますが、その時は職員の先生方のことを考えていました。自分が直接子どもと関わるわけじゃないけれど、先生がイキイキ働くことで、子どもが元気になる。そのために自分は教員の職場環境を整えるのだと。

「279スペシャル」って、子どもはもちろん、社会人講師たちも一緒に元気になるんです。講師になることで、その人たちの視野に子どもが入る。すると、自分の受け口は学校にもあるのかもしれない、って新たな可能性が見えてくると思うんです。子どもと学校の関係だけではなく、社会と学校をつなげられるようになるといいですよね。

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―内藤さんのこれからの目標は?

内藤:こうした社会と学校との取り組みが、仕組みになってくれたらと思っています。それは、自分がいなくなっても続いてほしいという願いです。社会が学校に入ることで、子どもたちが勉強することの意味を感じられるとか、いま人間関係に困っている子どもがこの経験は無駄ではなく社会で活かされることもある、と感じられるとか。そういうことを理解してもらいたいし、そういうことを伝えたいと思っている方はいると思うので、それをうまくつなげていきたいですね。

―まずは、寒川・茅ヶ崎の地域の中で、ですね

内藤:そうですね。学校に参画することで町民も元気になるはず。そんな学校を中心とした街づくりが寒川町でできれば嬉しいなと思っています。

―ありがとうございました。

<インタビューを終えて>

内藤さんのストーリーは、聞いていてまるでドラマを観ているようでした。キャリアの迷いや辛かった時、日常の何気ない場面(タクシー運転手の一言)に心打たれるなど、こちらも当時の情景が鮮明に伝わってきました。教師になってからのご経験にも変化があり、「279プロジェクト」のお話をされている時は特にワクワクされていました。学校をその場だけに留めず、社会や多くの大人達と繋げようとされている活動は本当に素敵です!引退をされてからもやりたい事が沢山、好奇心旺盛でアクティブな内藤さんのこれからが楽しみです。(山添夏奈)

インタビュー:山添 夏奈
撮影:安部 翔吾
編集:もりおか ゆか