良い波もあれば、良くない波もある。だから人生は面白い。

saga-san photo with surfboard

マイレジェンドインタビューにいよいよ本物のサーフィンレジェンドが登場! 日本のサーフィンの歴史とともに人生を歩んできた佐賀さん。湘南の豊かなライフスタイルとはどのようなものかお話を伺いました。また、サーフィンとは全く別の仕事をして両立をされてきた仕事観、人生観にも迫りました。

(佐賀 亜光(さが つぐみつ)さんプロフィール)
元建築コンサルタント、クリプトン株式会社 代表取締役/日本で最初にサーフィンを始めた一人と言われるレジェンドサーファー。1961年に鵠沼海岸のビーチに遊びに来ていた米軍兵よりサーフィンを学び、仲間たちと「サーフィンシャークス」を結成。国内発のサーフィン大会「平凡パンチ杯」に参戦し、全国2位。その翌年、日本サーフィン連盟(NSA)設立に尽力を尽くすとともに、運営委員として活躍。また、ハワイとの親交も深く、サーフィンを通した国際親善にも参加している。DVD「日本サーフィン伝説 日本のサーフィン史を辿る The Legend of Surfing」等に出演。

 

佐賀さんといえば、日本のレジェンドサーファーという代名詞がまず出てきます。DVD「日本サーフィン伝説 日本のサーフィン史を辿る」で出演されている佐賀さんが目の前にいらっしゃるのが不思議なくらい感動しています。

佐賀 ありがとう。おかげさまでサーフィンを日本で最初に始めた人の一人ということで色々なメディアや雑誌にも取り上げてもらいました。

saga-san photo with a smile

―サーフィンを始めたきっかけはアメリカ人の軍人の方から教わったというのは本当なのでしょうか?

佐賀 本当ですよ。17歳のときに鵠沼海岸でサーフィンをするアメリカ人の姿を見かけて、片言の英語で友人と一緒に話しかけました。そうしたら彼は快くボードを貸してくれて乗り方まで教えてくれた。

―そのときサーフィンをしている方はたくさんいらっしゃったのですか?

佐賀 いやその人だけだった。テレビ番組でサーフィンのことを知って、ボードの上に立つというのをいつかやってみたいと思っていたのだけど、その頃は板子乗り(※)しかなかったからね。(※板子(イタコ・イタゴ)乗りとは、和船の船底に敷く揚げ板の事を板子といい、漁師が漁を終え、和船を浜に上げた後、長さ90cm、幅35cmほどの板子を使い、腹ばいになり岸へ向かって波乗りをしたと言われている)
ビーチにはよく行っていたのだけど、サーフボードを持っている人を見たのはその時が初めてだったな。迷わず声をかけに行きました。

偶然の出会いだったのですね。

佐賀 米軍の厚木基地からきたアメリカ人男性で、手ほどきしてくれて、その日にすぐボードの上に立てるようになったね。そうしたら彼が「小田急線で来たのだけど、駅員から帰りはサーフボードを電車に乗せられないと言われた」と言って困っていたので、「それならうちに置いていったら」と私の自宅でサーフボードを預かることになり、交流が始まりました。その後も一緒に海に入ったり、横浜の本牧ベースで映画「エンドレス・サマー」を見たり。それが僕や兄弟が他の人たちよりも一足早くボードに乗れた理由です。

 

saga-san photo in a magazin

 

何もないところから始めるというのはすごいことですね。

佐賀 そうだね。当時は今のようにサーフィンが当たり前にあるものではなかったからね。鎌倉・稲村ケ崎あたりでサーフィンをしていると見物する人で車渋滞が起きてしまって、パトカーが来て「海から上がりなさい」と言われることもあったね。ウェットスーツもなかったから、スキューバーダイビング用の上下が分かれているウェットスーツの下に女性用のストッキングを履いて少しでも温かくするように工夫したりとか(笑)。

―まさにサーフィンのパイオニアですね。DVDを拝見したとき思ったのですが、佐賀さんと同じくレジェンドサーファーといわれる方々は、サーフボードのシェイバー(サーフボードを作る職人)などサーフィンに関連する仕事をされている方が多いですよね。そんな中で佐賀さんは、建築という全く異なる仕事をされています。

佐賀 サーフィンは好きだけど、仕事にしたいとは思っていなかったね。今でこそ建築にいるけれど、実はいろいろな経験をしてきているんだ。最初はカメラマンになりたくてね、初めてカメラの仕事ができたときは嬉しかったなぁ。

ご出身が日本大学芸術学部写真学科でしたね。芸術分野で身を立てたいと思われていたんですね。

佐賀 そう。僕は潜水の免許も持っていてね、大学ではずっと水中写真を撮っていたんだ。卒業したら学研(学習研究社)に就職したくて、在学中から3年間、学研でカメラ助手をしていた。当時学研は倍率150倍といわれるほどの人気だったけど、僕は100%、このまま入社できるだろうといわれていたんだ。配属先も映画制作部門だといわれたりしてね。その話の通り、就活も順調に進んで、最後の2人まで残り社長との最終面接までたどり着いた。だけど、なんとそのあとの身体検査で色弱と判定されて入社できなくなってしまいました。普段の生活では何一つ不自由なことなんてなかったのに……そのときは本当にショックだった。

―そうですね、それはショックすぎますね。

佐賀 確実に入れるというお墨付きをもらっているような状態だったからね。それに、実はもう一回、同じショックを味わっているんだ。卒業後、結局新聞社に就職して、しばらく念願のカメラの仕事はできていたんだ。1面あけてすぐのグラビア4ページを任されるくらいにもなってね。だけど、入社半年して使用期間が終わるとき、一応検査をってことになった。学研のことがあったから嫌な感じはしていたけど、やっぱりというか、ふたを開けてみたら前と同じ理由で「ごめん」って言われて辞めざるを得なくなった。本当に悔しかったですよ。

銀座のネオン街をとぼとぼ歩いている風景を今でも覚えているな。現在では色は数値で特定ができるから目は関係ないのだけど、当時は色弱という判定を会社も受け入れざるをえなかったのだろうね。ただ、自分はその判定を受けたことがショックで、悔しくて、「何とか変えたい」という想いがあったかな。そのあと日本大学の研究室に戻って「カラー」を教えることになりました。

大学に戻られていたんですね。

佐賀 そうです。旧コダック社の現像方法や水中写真を主に教えていました。海の底まで潜っていくと何色が最後まで見えるか知っていますか? 黄色が一番見えるんですよ。スペクトル光線というのだけど、青や赤や緑などが徐々に見えなくなっていき、最後に残るのが黄色。そうしたデータを作ったりして研究して発表していました。当時は「カラー」に対する絶対的な執念があったな。

そうだったのですね。そのときが何歳くらいですか?

佐賀 24歳くらいかな。そのころ学生運動で学園紛争が起きて、学校閉鎖するようなことがおきた。紛争は芸術学部から始まってね、渦中だよ。学生と学校が対立したり、学内でも理論派と実践派に分かれたり……色々なことがありました。そんな中私も車で交通事故にあって、水中に潜ることが出来なくなってしまい、カメラマンとしての復帰が難しくなりました。

―24歳で、今までのカメラマンとしての仕事が続けられなくなってしまった・・・

佐賀 そうですね。でもそうしたことがきっかけで今があるからいいんだけどね。

saga-san explaining to interview member

その後はどうされたのですか?

佐賀 鋸盤(のこばん)といって鉄を切るノコギリのような製品を扱うメーカーに入社しました。一部上場の大きな企業でした。そこでは、営業・製造・倉庫管理・工程管理・購買まで全部覚えて、最終的にはプレス関係の部門で営業の全国トップになりました。

―さすがですね。

佐賀 30歳くらいまでそこで働いて、それから建築の世界に入りました。兄貴二人が建築関連にいたこともあってもともと馴染みがある世界だったし、昔から建築写真とか仏像写真とかも撮っていたからね。

―建造物に興味があったんですね。

佐賀 そうそう。その会社はものすごく急成長したのだけど、バブル崩壊とともに傾き始めて、そのタイミングで自分の会社を創ることになりました。

―ご自身の会社というのがクリプトン株式会社ですね。

佐賀 そうです。もともと佐賀家として鵠沼あたりに土地があったこともあって、その一帯を「クリプトンビレッジ」と名乗って、湘南らしい家づくりを一体で取り組みました。その時は雑誌などで出版社が取材をしてくれて「湘南に家をつくる」「湘南らしい生活」みたいな記事がたくさん掲載されました。掲載料無料で宣伝効果がとてもありました。

―その頃の湘南は人気が高かったのですね。

佐賀 当時は湘南ブームだったから、僕も土日休んだことがないほど忙しかったですね。大手のメーカー、航空会社、広告会社とかその業界の一流の方々からこぞって湘南に家を建てるための相談が入りました。その人と話をしていて作りたい家のイメージをプロデュースしていくわけです。そうすると、「あいつに頼めば大丈夫」ということで口コミで広がっていきました。

―仕事もかなりお忙しそうですが、その中でもサーフィンは続けていたのでしょうか?

佐賀 やっていましたね。朝4時くらいにパジャマのまま車に乗って海に行くというのが習慣でした。全日本のサーフィン大会に出ている40代半ばまでは基本的に毎日。波は毎日コンディションが違うので、いい波だけ乗っていても勝てない。だから休んだことないですよ。

また、建築の会社で働くようになった30代からは毎年冬にハワイにも行くようになりました。航空券を買ってしまって、それに合わせて仕事を終わらせるようにしていきました。クリスマスの時期から1月の中旬くらいまではハワイのノースショアでシェアハウスのようなところに泊まっていました。

―冬のノースショアといったら、めちゃくちゃ波が大きいですよね。

佐賀 そうだね。ノースでは死にそうになったのが3回くらいあるんですよ。そういう経験って心に残るんだよね。最初の1回目は次はこの失敗はやらなければ大丈夫と思えるので乗り越えるのは楽だったのだけど、2,3回と回数を重ねるとそうはいかなくなる。やはり年なのかな、45歳くらいから抑えぎみになったかな。海に入っている間は緊張しっぱなしになるじゃない? 周りにライフガードの人がたくさんいるとはいえ。

ハワイでは49歳のときサンセットビーチで試合に出たのを最後に大会出場は辞めました。日本では50過ぎても稲村ケ崎の大波には乗っていましたけどね(笑)。

saga-san working as a photographer on Kauai

カウアイ島でカメラマンとして活動をする佐賀さん

―挑戦したことがある者しかわからない世界ですね。カウアイ島にもかなり行かれていたのですよね?

佐賀 カウアイ島は40歳を過ぎて、友人がオアフからカウアイに移ったこともありよく行くようになりました。その頃は朝5時すぎから海に入って8,9時くらいまで15~25本くらい良い波に乗ったら海を上がって、カメラマンとして写真を撮っていました。それから仲間と買い出しに出かけて、午後はゴルフにもよく行っています。そして夕飯はみんなで料理を作ったりしてね。

―最高に理想の生活ですね。私もそんな生活がしてみたいです。色々なお話を伺いましたが、佐賀さんに共通しているのは常にたくさんの仲間に囲まれている印象を受けたのですが、何か意識されていることはありますか?

佐賀 基本的に人が集まる場が好きだね。そして自分からよく連絡をするかな。さっきもハワイの親友の誕生日だったから電話をしたのだけど、そういうのはよくするね。あと、今茅ヶ崎で「金曜日の会」という集まりをやろうということで、自分から発信をしています。茅ヶ崎のイトーヨーカ堂の裏にある「MAURINマウリン」というハワイアンのレストランのオーナーが友達で、彼が金曜日にお店にいるので私もよく行くようになったのをきっかけに、周りの人が「私も、私も」自然と集まるようになっていきました。

―佐賀さんに声をかけられたら私も行きたいと思ってしまいます。その自然な求心力はとても魅力的です。そんな魅力的な佐賀さんが逆に今まで失敗したと思う経験は何かありますか?

佐賀 そうだな。仕事の中での小さな失敗経験はもちろん沢山していると思います。62歳で自分の会社を辞めたのもこれ以上周囲に迷惑にならないようにと決断をしたことです。今まで付き合ってきた仲間の前からいなくならなければいけないような失敗はしたくはないので、その前に手を打ってきたということでしょうか。だからそういう意味では大きな失敗というのは無いかな。

何でもそうですけど、起きたことや与えられたものがあって今がある。色々なことがありましたけど、人生は面白かったですね。

saga-san photo

―佐賀さんの本棚にもあった「夜と霧(※)」という本を私も先日読んだのですが、そこに書かれていたことと佐賀さんのお話が重なります。「今自分が生きているこの運命に対し、どのような態度を取るのかという自由は常に私に与えられている」ということ。つまり、どんなことが起きてもそれを前向きにとらえられている印象を受けました。

佐賀 そうですね。去年の夏、朝ラジオ体操に参加するため海に向かう時に、自転車が車と接触して骨折をして大けがをしてしまいました。相手が悪いと言えば悪いのだけど、それを言ったところで自分の身体が治るわけでもないし。怪我によって周囲の人から大丈夫?と優しく励まされると、自分は絶対挫けられないなと思うので、周りから力を頂いていると思っています。

ま、人生色々ありましたけどね。何事も経験だよね。だから若い人にはこれから沢山のことがあると思うけど、人を恨んでいくより、今起きていることは自分に力をつけてくれていると思ったほうがいいと思うかな。

(※)精神科医ヴィクトール・フランクルがナチスの強制収容所経験をもとに書いた書籍。アメリカでは「私の人生に最も影響を与えた本」でベスト10入りした唯一の精神医学関連書籍となるなど名著として名高い。

 

―ありがとうございます。これからの世代に向けたメッセージだと思ってしっかり受け止めます。佐賀さんの今後についてお伺いしたいのですが、いよいよ東京オリンピックでサーフィンも初めて競技になりますが、どのようなお気持ちですか?

佐賀 今世界でも活躍しているのは五十嵐カノア君が有名だよね。最近のサーフィンはただ波に乗るだけでなく、フィギュアスケートと同じように乗っている時のスタイル、その人の手足の先まで表現が問われるようなものになっている。カノア君はその中でも十分戦っていけるだけのスキルがあるんじゃないかな。ぜひ活躍に注目したいね。

私もいつまでもサーフィンをやっていきたいし、格好よくやりたいしね。自分が出来る範囲で縁の下の力持ちとなり、世界のサーフィンの発展に貢献できたらと思っています。

―本日は貴重なお話をありがとうございました。今度一緒にサーフィンする機会がくることを楽しみにしています。

saga-san photo with interview member

 

<マイレジェンドから学んだこと>

大学のころからサーフィンを始めた私にとって、日本を代表するレジェンドサーファー佐賀さんと時間を共にし、お話を伺うことが出来たことはとても貴重な経験となりました。
ご自身のライフスタイルを確立し、仕事とサーフィンの両立、ハワイへの遠征などやりたいことを自然体で取り組まれてきている佐賀さんはやはり憧れの存在です。
また、様々な仕事を経験されてきたことは今回初めて伺う機会となりましたが、どんな苦労も自分への学びに変えてしまう力の強さを感じました。少しこじつけかもしれませんが、波の良い日も、波の良くない日も毎日コンディションに合わせながらサーフィンをしてこられた経験があるからこそ、仕事や生活においてもその場に柔軟に身を委ねることが出来るのではないかと感じました。(順平)

 

取材:山口順平
撮影:安藤アン誠起
文:山口順平、もりおかゆか