障害がある人、ない人。分断された2つの世界をつなげるために、わたしになにができるだろう。

「障害のある・なしでどうして生きる世界がわかれているんだろう」中学時代にそんな疑問を抱いたことをきっかけに福祉に興味をもった重野友希さん。その想いを持ち続けたまま大学卒業を迎えたとき、すぐには福祉業界に入らないことを決めました。理由は「社会をつくる大多数の感覚を知りたい」から。IT業界、福祉系ベンチャー、地域の文化複合施設と経験を重ね、重野さんがたどり着いた社会と福祉の世界のつなげ方、自分の役割とは?キャリアラボメンバーでもある重野さんが考える福祉のこと、今の想いを伺いました。

―友希さんとはきちんとお話するのはほぼ初めてですよね。Facebookの投稿などは拝見させていただいています。

重野 ありがとうございます。変な投稿とかしてないかな……(笑)。

―いえいえ!(笑) 想いの強い方なんだろうなとお話伺えるのをとても楽しみにしていました。友希さんはいま茅ヶ崎にお住まいですか?

重野 はい、住み始めて2年半くらいです。出身は三重県で、大学で関東に出てきてそのまま就職しました。

―地元の方かと思っていました! 茅ヶ崎や藤沢で活躍されているイメージだったので。

重野 違うんです。でも、辻堂にある湘南T-SITEのものづくり施設で働いていたことがあるので、そのときに湘南エリアの方々とはたくさん知り合いました。

―現在も湘南で働いているんですよね。福祉関係のお仕事をされているとか。

重野 はい。藤沢にある就労支援施設で働いています。印刷部門でDTPの仕事をしていて 、障害のある方と一緒にチラシや名刺、冊子などを作っています。イメージとしては、会社で一緒に働くメンバーに障害のある方がいて、手厚く教えながら仕事をしているという感じが近いかな。わたしのいる施設は比較的障害の度合いが軽度な方も多く通われています。

―就労支援施設、初めて知りました。友希さんはずっと福祉に興味をお持ちだったんですか?なにかきっかけが?

重野 わたしは身内や友達に障害者がいたとか、なにかハッとする体験をしたとか特別なことはないんです。例えば異文化として海外に興味を持つのと同じように、わたしにとってはその対象が障害のある方だったと思うんです。自分に想像できない感覚を持っている方たち。

根っこにあるのは、中学生のときの気づきです。今は少し緩和されているかもしれません が、わたしが中学生のころは地元の福祉施設って人里離れた辺鄙なところにあるケースが多くて。障害があるというだけで、世間と離れた場所で活動しているんですよね。でも、たまたま障害がある・ないというだけで、生きる世界が分かれているのってなんでなんだろう、って思ったんです。だって、きっと世の中には障害を持っている方はたくさんいるだろうに、街中を歩いていてもすれ違うことってほとんどないでしょう? 世界が分けられてしまっていることがいやだなって思ったんです。

―中学生のときにそこに気付いて疑問を持てるってすごい。友希さんだからこその視点ですよね。

重野 そんな大したものじゃ(笑)。「自分だったら?」「もし身内にいたら?」って想像して今の世界を考えたとき、いやだって思ったんです。

―大学卒業後は福祉業界に?

重野 いいえ、最初から福祉業界に就職はしなかったんです。IT業界でシステムエンジニ アを4年ほど。卒業してすぐに福祉業界に入ったら世間知らずになってしまう気がして。

―世間知らず、というと?

重野 この社会を形作っている大多数は一般企業の会社員ですよね。だから、その会社員というところに属してみないと、働き方はもちろん多くの人の感覚がわからないんじゃないかと思って。

でも、ずっと(IT会社に)居続けることは考えていませんでした。明確に年数は決めていなかったですけど、いずれは福祉関係にと就活当時から思っていました。

―長いスパンで考えて就職活動できるってすごいですね。わたしは一度就職した企業でずっと働くんだって思っていました。

重野 大学の友達は安定した考えの人が多かったですね。なにに影響されたんだろう…… 大学時代のボランティア経験かな。ボランティア先で他大学の学生や社会人コーディネー ターと話す機会があって。やり方は一つじゃない、いろいろな道があるんだろうなと思っていました。

―そのときから広い思考を持っていたんですね。

重野 憧れていましたね、NPOとかNGOで活動している人に(笑)。

―最初に就職したSEは全く違う分野ですよね。

重野 SEを選んだのは冒険心からでした(笑)。きっかけは、卒論で選んだテーマが難しすぎて自分の中で答えが出せなかったこと。苦しすぎて、答えがある分野にいきたいって(笑)。それが、理系で、SEだったんですよね。文系からSEになった知り合いもいたし、やってみようって。でも、つらかったですね。多少時間はかかっても言われたことはこなしていたし、周りからは「全然負担になっているようには見えなかった」と言われましたけど、なんだかいつも利き手じゃないほうの手で字を書いているような感じ。「やれるけど、向いてない」って思っていました。

―「利き手じゃないほうの手で字を書いている」面白い表現ですね。そこから福祉業界に入るまではどんな道を?

重野 SEのときから東京仕事百貨(現:日本仕事百貨)やgreenz.jp、ソトコトなんかをずーっと眺めていました。興味を持った人にアポをとって話を聞きに行ったり、ETICとかのイベントに参加しては主催者に話しかけたり、積極的に人と会っていました。

―すごい、行動派ですね!

重野 若さゆえの!(笑) SEを辞めてから入った福祉系ベンチャー企業も、そこでつながった縁でお誘いいただいたんですよ。

―積極的に情報を集めていたんですね。ご縁ってどうつながるのかわからないものですよね。

重野 それはほんとに実感しましたね。2社目は、福祉施設で作っている商品をどう売るかというコンサルティングをしている会社でした。今はそういうビジネスも増えましたけど、当時は先進的で。わたしは社会と福祉の世界をつなぐポジションにつきたいと思っていたので、まさにこれだって感じ。結果としては1年も経たずに辞めてしまったんですけど、福祉業界の中ではかなりとんがったというか、日本の福祉業界の先を行く面白い方々と出会うことができました。

同時にものを売るだけではなく、直接的に人と人がつながらないとわたしが思い描く世界にはならないって気づきもありました。

―「人と人がつながる」ですか。

重野 大阪の百貨店で、会社がプロデュースしたお菓子を販売したことがあったんです。2週間限定の催事で、多くの人が買ってくれました。でも、実はそのお菓子って百貨店のある大阪ではなく、ほとんど関東の施設が作っているものだったんですね。そのとき、「ものは売れたけど、作り手(施設)の地元の人たちはこのことを一切知らない」って思ったら、いくらものが売れても、作り手の顔が見えない・その先の交流につながらないなら、障害者への理解は深まらないって思ってしまったんです。それって、わたしが目指 したい“社会と福祉の世界のつなぎ方”とは違う。

もちろん、ものが売れることには価値があると思っています。ただ、実際に足を運ぶ、交流する。そうしないと、いつまでたっても“イメージ”は“イメージ”のまま、障害者が未知の存在で、「自分とは違うもの」であり続けてしまう。それって、なんだかあまり優しくない社会なんじゃないかなって思うんです。

―施設で作られたものが「もの」としては届くけど、「人の接点」にはつながらない。実際に出会うことで理解を深め2つの世界の垣根をなくしたい。その想いが強いんですね。

重野 多くの人が思い浮かべる福祉、障害者のイメージは、実際と乖離していることは往々にしてあります。福祉に携わって数年経つわたしでもまだまだイメージを越える現実を見ることもありますから。

―その経験が現在の仕事にもつながってきている?

重野 次に勤めた湘南T-SITE内のものづくり施設(※現在は閉店)では場所貸しをしていたので、実際に障害者と接点がもてる場がつくれないかと動いてみたのですが、なかなか 実現できなくて。悔しい思いもしました。そうするうちに、地元のものづくり作家さんの作品を販売する担当に移りました。

販売担当はある程度自分の裁量で置く商品を決められるので、福祉施設で作られたものも置ける。ただ、作品として売るだけじゃ前と同じになってしまう。だから今度は、材料・ 素材から売ってみようと思いました。そうすれば、直接施設に素材を買いに行くという行動が生まれるんじゃないかと思って。

それで藤沢市内の施設で織られた布を置きはじめたとき、たまたま来られていた別の施設の職員さんが「うちは糸を染めているんです」って紹介してくださったんです。写真を見たらほんとうにきれいな糸で。見学に行ってご相談しながら販売してみたら、思いのほか売れました。女性って糸とか布とか好きなんですよね(笑)。とくに目的はなくても、「なにかに良さそう」ってつい買っちゃう。

―わかります(笑)。

重野 そのあと知り合いのアクセサリー作家さん2~3人にその糸を素材に作品を作っていただきました。最初は、素材を指定するなんて、こだわりを持つ作家さんに失礼なんじゃないかって悩んだんですけど、反応は真逆。ものづくりで地域とつながれる、貢献できることがすごく嬉しいっていっぱい言っていただけたんです。作品と一緒に糸の紹介をしてくださったり、SNSでも発信してくださったり、そうするうちに別の作家さんやファンの方、その作品を手に取った方に糸のことが広まって、福祉から縁遠かった人が自分の足で 施設に糸を買いに行くって循環が生まれてきたんです。

―「ものづくり」や「素材」といったキーワードから、社会と福祉の世界の交流が生まれていったんですね。

重野 このきっかけがなかったらきっと施設に一生行くことはなかった人たちだと思います。すそ野が広がっていくというか、それが面白くて。

―社会と福祉をつなげる、そのひとつの切り口を見つけられたんですね。

重野 社会と福祉の橋渡しをしたいと思い続けて、最初は自分自身が懸け橋になれるコーディネーターやコンサルに憧れていました。ものづくりみたいなツールを介してなら、わたしも2つをつなげることができるんだってわかりました。

―なんだかすごく思いが優しいというか、すてきですね。これから取り組みたいことはありますか?

重野 糸の事例がうまくいったので、これをほかの施設でも応用できればと思っています。それから印刷物も好きなので、福祉を紹介する小さい印刷物とか作れたらいいなと。

いまは、就労支援施設に勤めてやりたかった福祉に拠点を置きながら、個人活動として社会と福祉をつなげる活動を続けています。ゆくゆくはこの配分も変えていければいいなって……1社目を辞めてから働き方もずっと模索していて、いまもまだ実験中です。

―まさにキャリア「ラボ」ですね。

重野 わたしが社会にでて10年ちょっと経って、その間に社会は――抽象的すぎてあまり好きな言葉じゃないんですけど――「多様性」に対しての理解は進んでいるのかもしれません。でも、まだまだ。福祉に興味がある人は、何もしなくてもやってくれる。だから、それ以外の人にどれだけ届けることができるのかを考えていきたいです。

―ありがとうございました。

<インタビューを終えて> 友希さんの丁寧な言葉選び、独自の表現が印象的なインタビューでした。昔から福祉の分野に興味はあったものの、あえてすぐには就職せず、「社会」という広い視点を常に持たれている方だとわかりました。福祉の事もSEでの経験も、「その感覚を知りたい」という 好奇心をきっかけとしていて、自分以外の何かを知ろうとする姿勢がとても素敵な事だと 思います。感覚を知ろうとす事、社会全体を見渡しながら福祉の分野に接する友希さん、ご自身のペースでこれからもどんどんラボして発信してもらいたいですね。優しさで溢れた、暖かいインタビューをありがとうございました。(山添)

インタビュー:山添夏奈
撮影:岩井田優
文:もりおかゆか